天空に起つクリエイティブサマン金大偉
鎌田東二(京都大学名誉教授)
た
本作品は、金大偉監督の前作『ロスト・マンチュリア・サマン』(2016年製作)の続編であるが、そのタイトル「天空のサマン」は、金大偉監督自身と重なってくる。というのも、天地人三才の通路となって、天空の神聖エネルギーをメッセージを大地や人間世界に降ろしてくるクリエーター金大偉は、まさしく現代の「天空のサマン」そのものにほかならないからだ。
このドキュメンタリーは、失われていく「満洲のサマン文化」の継承と再発掘と鎮魂の映像詩であると同時に、その「サマン文化」をわが身にしかと刻み込み生き抜いていこうとする金大偉の覚悟のほどを世界発信した決意表明の映像マニュフェストである。そのことは、本編のほぼラストシーンに描かれた長白山(白頭山)天地の雪原の銀世界に一すじの足跡(それは「3万年の祖先たちの力」の継承を象徴している)を記して金大偉監督自身がきりりとまなじりを決して天空を見上げている光景が映し出されていることによってはっきりと証明されている。
そこに映し出されてくる満洲語とその後の日本語、
天空の光がきらめく
その中に
天空に至る巨大な柱を見よう
それが、金大偉の決意であり、世界発信のメッセージである。金大偉はその決意を10年以上の前作と本作制作の過程で深刻な危機意識とともに明確に自覚することになった。
民族文化の精華である満洲語とそのエッセンスを成す世界観を伝承する満洲「サマン文化」は消滅の危機に瀕している。前作『ロスト・マンチュリア・サマン』もその危機を訴えていた。だが、それからすでに7年が経過し、その事態はいっそう進行し、深刻になっている。
その中で、金大偉は彼の思いと決意の中で、満洲族の父と日本族の母との間に生まれた出自とアイデンティティの探究と自覚の深まりを通じて、いよいよ彼自身の独自の立ち位置を発信した。前作では恐る恐るというか、遠慮がちに、奥床しく。しかし、本作ではそのような見栄も恐れも衒いもなく、ただ真っ正直に誠心誠意に告知した。その決意表明を見て、この20年近くの金大偉の創作の過程を目撃してきた私は、本作を感銘深く見届けた。そして、それでよい、その道を往け、クリエイティブサマン金大偉監督よ!と諸手を挙げて応援したい。
金大偉とはだいぶタイプが異なるが、岡本太郎という稀有な芸術家であり民族学者は、縄文土器の文様は造形を見て、そこに宇宙の神聖エネルギーが渦巻いているのを鋭く深く感じとった。この宇宙の神聖エネルギーを感じとるという点は金大偉にも通じているし、芸術家でありながらシャーマニズムを生きた点でも共通している。
1951年、岡本太郎は上野の国立博物館で偶然縄文土器に出逢い、激しい衝撃と感動に見舞われた。「一般に日本美と考えられている繊弱で、平たく、小ぢんまりした風情にがっかりしていた私は、この激しい、猛烈に渦巻く『縄文』の生命感こそ、自分の根源に相通ずるものであることを確信した」のだった。そして、「縄文土器――はじめてこれにぶつかった時、私は精神をすくいあげられるような衝撃にうたれた。分厚く、激しく、執拗にうねり、渦巻く流線紋、なまなましく、鋭く、しかも純粋である。世界でもこれほど凄みのある、強烈な美観は少ないのではないか。/装飾ではない。あれほど濃密でありながら、余分なものは何一つつけられていないのだ。何か大地の奥底にひそんだ神聖なエネルギーが、地上のあらゆるものをゆり動かす、そんな超自然の力がここに圧縮され、あふれ、凝集しているような気がした。/太い線が混沌の中から浮びあがり、逞しく、奔放に、躍動し、旋回する。幾重にも幾重にも、繰りかえし、のたうち廻り、ぎりぎりとうねって、またとんでもないところにのびて行く。この無限に回帰するダイナミズム。深淵をはらんだ空間性。凄まじいとしか言いようがない」(『美の世界旅行』新潮社、1982年)と縄文美の力と本質を直観した。こうして岡本太郎は、縄文という日本列島の時の原初に「神聖エネルギー」の顕現を見てとると同時に、日本列島の先端の沖縄に、もう一つの「神聖エネルギー」の顕現と継続を見てとってゆくのだが、この核心にシャーマニズムがあった。そしてその沖縄の向こうにユーラシアがありアジアの「サマン文化」があることを金大偉は見通している。
岡本太郎(1911‐96)のことを、「あるとき、突如彼はシャーマンになる」と形容したのは、岡本太郎の秘書で養女となった岡本敏子である。「シャーマンshaman」とは、神や精霊など目に見えない超自然的存在と直接交信する特殊な霊的能力を持った宗教的職能者のことを指す。その「シャーマン」や「シャーマニズム」について、岡本太郎は次のように述べている。
「沖縄には日本の原始宗教、古神道に近い信仰が未だに生きている。のろはその神秘的な女性の司祭、つまりシャーマンである。各島・各村々にかならずのろがいて、宗教的儀式や祭りをつかさどる。沖縄列島では『のろ(祝女)』、先島では『つかさ(司)』というが、役割は同じだ」、「神はこのようになんにもない場所(御嶽のこと―引用者注)におりて来て、透明な空気の中で人間と向き合うのだ。のろはそのとき神と人間のメディウムであり、また同時に人間意志の強力なチャンピオンである。神はシャーマンの超自然的な吸引力によって顕現する。そして一たん儀式が始まるとこの環境は、なんにもない故にこそ、逆に、最も厳粛に神聖にひきしまる」、「沖縄のウタキ(御嶽)は神のおりる場所だが、しかしまったく変哲もない、森の中の小さな広場で、その真中に石ころが二つ三つ、落葉に埋れてころがっているだけ。祭壇も、偶像も、何もない。そこにかえって強烈な神秘があった。(中略)高度な世界宗教では、はかることの出来ない、信仰の姿。そしてそれはまた、いわゆる未開社会の原始宗教とも、何か質の違う、――あえて言うなら、きわめて日本的な神聖感につらぬかれた、無垢な信仰だ。それが素肌のまま生きているのを感じた。/われわれの生命の初源的な姿、感動の根は、そこにあるのではないか。私という個人をこえて、民族の底にあるものを触発される思いだった。」(「沖縄文化論『何もないこと』の眩暈」『岡本太郎著作集第五巻 神秘日本他』所収、講談社、1979年)
金大偉が本作『天空のサマン』で探究し、表現しているのはまさにこの「われわれの生命の初源的な姿、感動の根」であり、「私という個人をこえて、民族の底にあるもの」である。この点で、岡本太郎が見ていたものと金大偉が今希求しているものには共通点がある。岡本太郎はノロやツカサと呼ばれた「メディウム」の「シャーマン」性とそれを発現する場所としての「御嶽」の「神聖」について述べている。シャーマンをシャーマンとして顕現させる磁場がある。その磁場の最高の神聖エネルギーが渦巻くところが長白山天地である。
岡本太郎は「秘密」や「神秘」への参入者を「シャーマン」と呼び、「己れに徹底的に過酷」に「生命の秘密」や「世界と存在の神秘」に挑み続けるのがシャーマンであるとした。その意味では、岡本太郎も金大偉も「シャーマン」であり、「神秘との交通者」である。
岡本太郎は神道の起源のアジア的基盤について次のように述べている。「神道のはじまりというのは、広い意味でいえばシャーマンだと思うのです。神道というと、とかく国粋主義・日本主義でかたづけられやすいですけれども、シベリアから太平洋までひろがるアジア的な伝統というものを、考えなければいけない。それと日本独特の自然信仰、山岳信仰が根本にあるのじゃないか。部族の中にいつもシャーマンという神秘な存在がいて、天と地の霊と交流して、人間社会の神秘的な面をつかんでいた。」(『岡本太郎著作集第9巻 太郎対論』、「神と祭りに見る始原」石田一良との対談、講談社、1980年)
つまり、神道の起源や根底にはアジアの「サマン文化」があるということである。金大偉が喪われゆく満洲の「サマン文化」を記録し呼び覚ましながら訴えているのは、単なる地域文化の再発見などではない。むしろ、地球に抱え込まれ内蔵された「神聖エネルギー」の再喚起なくして、もはや私たちの再生はありえないという危機の表明である。地球という水の惑星をまなざすその「天空のサマン」の旅の軌跡に込められた痛みと悲しみと希望と祈りを、そしてそこからの飛翔の翼のはばたきを、私は本作の随所に聴いた。